正解のない問いは大事だとよく言われます。生きていく上でこれが正解というものはないのだから、ふだんの学習でも答えのない問いを大切にしようということですね。それはまったくその通りで、私もそれは大事なことだと思っているのですが、ともすると、正解のある問いが軽視されてはいないかと感じることもあります。
数学は正解がある科目の代表例です。もちろん最先端のところでは、正解がない問いに対して格闘している数学者がおられるでしょうが、中高生の学びとしては、公式や解法パターンを覚えて問題を解くことが多いでしょう。数学嫌いになってしまう生徒の多くは、そのような解答技術を習得することに意味を感じることができないのかもしれません。しかし、正解がある問いに対してトレーニングを積んでおくことが、答えのない問いに対して考える力も伸ばしてくれる側面があります。言ってみれば中高生の時代というのは、「知のインフラ」を作っているところなのです。答えのない問いを考えるにしても、正しく考えるためのツールは必要です。数学というのは言語と並ぶ「知のインフラ」だと言えるでしょう。そういうふうに考えてみると、古代ギリシアで発達したのが哲学と数学というのは、分かるような気がします。リベラルアーツ7科のうちでも、算術、幾何、天文学の3つは数学的な領域ですよね。音楽も数学に関わる科目とする考え方からすれば、数学と言語が学問の基礎をなしていると言われることに、なるほどと納得できます。特に数学の場合は、曖昧さを排除して厳密な思考を要求しますから、緻密に考えるトレーニングとしては言語以上のツールになります。幾何の問題などで、この角度は大体何度であると言えそうだと思っても、証明できずに手こずるなどということはみな経験することでしょう。また、n次元空間などといった話になってくると、平面図形や立体図形のように目で見えるものとは違った、抽象的な思考もトレーニングすることになります。さらに言えば、幾何で補助線を引いたりするのは、自分の解き方を常に自分で検証しているという意味で、複眼的な物の見方のトレーニングになっているのではないでしょうか。
問題をあらゆる角度から眺めることで、クリティカルシンキングのトレーニングになっていると思うのです。ふだんの生活でも、意識しないところで数学の恩恵に浴しています。ゼロやマイナスの概念はその最たる例でしょうし、「マイナスかけるマイナスがプラスになる」という考えなども、日常生活の中で何かの比喩として使われることがよくあります。 そんなことを考えてみると、数学の勉強が実際の生活に役に立たないなどということはまったくないわけですし、正解のある問いに答えることは「知のインフラ」を形成する上で大いに意味のあることだと言えるのではないでしょうか。
それにしても面白いのは、数学の先生って論理的で冷たい感じの人ではなくて、意外に人間らしい先生が多いことですね。これは本当に不思議です。