グローバル教育
先日、私立中学校の合同説明会があって、私も顔を出したのですが、学校のブースとは別にある受験相談コーナーが盛況でした。それだけ学校選びの軸を作るのは難しいということですね。どこに相談に行ったらよいか分からないという保護者が多いことの証ではないでしょうか。
子どもを育てるというのは、親にとっても未知の経験です。その軸をどこに置いたらよいのかということについて、まずは様々な情報を得ようとするのは当然でしょう。情報を手にしたら、今度は自分の目と足を使って学校を判断するのだと思います。つまり、情報というのは、ただそこに客観的に存在しているわけではないということです。好きとか嫌いとか、役に立つとか立たないとか、あるいは何か別のカテゴリーに区分されて存在しているのですね。
グローバル教育とか、ICTとか、21世紀型教育だとか、今ではあちこちで目にするようになったのですが、以前は、ほとんど学校選びの基準とはなり得なかったものです。偏差値以外の基準がこれだけ多く語られるようになったというのは、人々が自分なりの評価軸で学校を判断するようになってきたということなのでしょう。グローバルの学びというと、一般的には海外で学ぶことができるとか、海外に進学できるとか、異文化体験とかいろいろあると思うのですが、学びの本質ということでいうと、海外であれ日本であれ、情報を取り入れるということから始まるのだと言えます。たとえば書物というのは、情報収集の典型的なもので、情報ソースとしては質の高いものです。書物ほどのまとまりはありませんが、インターネットも重要な情報源ですね。ミュージカルや絵画などといった芸術もまた情報を伝えるメディアです。書物からであれ、芸術作品からであれ、情報を取り入れる力、未知のものを吸収する力こそが学びの原点です。それがグローバルになるということは、例えば英語という言語でも情報収集ができるということを意味しています。英語が読めれば、日本語だけでは到達できなかった情報源に行き着くことができるわけですから。
しかし、それはただ英語ができればよいということとは少し違う気がします。言ってみれば世界が広がるということが大事なことなのです。芸術作品でも、例えばギリシア神話や聖書の知識を持っていることで、これまで見ていた世界とは違った世界が広がる可能性が
ある。そうやって自分の見方、自分の世界がグローバル規模になってくることが本当のグローバル教育の意味なのではないかと思います。
英語で書かれたものが表現として理解できるレベル、そして英語の論理構造が分かるレベル、さらに、そこからその言語の使い手が持っている価値観や宗教観ということを感じ取るレベル。そして、それらについて自分軸で評価できるレベルが存在しています。グローバルな学びというのは、こういったすべてのレベルを網羅したものなのではないでしょうか。
特に日本人が弱いとされているのが、自分軸が必要となるレベルです。ある情報や知識に対して自分がどう思うかという観点です。議論で大事なのは、そこですね。英語がよくできたとしても、それで議論することができるかというと、それは必ずしもそうではありません。自分の考えを持つということは、そこに知識も必要だし、自分の価値観に自覚的であることも必要になります。と同時に他者の価値観についても理解をしないと単に「ジコチューな人間」でしかありません。
何かを可愛いと感じたら、「可愛いからそれでいいじゃん」という態度ではなく、その価値観が自分にとってなぜ大事なのかということに自覚的である必要があるのだと思うのです。そこに議論が生まれる余地ができるし、より広い世界に目覚めるチャンスもできるのではないでしょうか。