「モヤ」感
今回は私が「モヤ」感と呼んでいる感覚について説明をしたいと思います。
私たちには、うまく説明できないこととか、はっきりとは分からないけど、もやもやしている感じ、というのがあると思うんです。教えることを仕事にしていると、とかくスッキリと整理して伝えることを重視するあまり、時にこの「モヤ」感を解消させる方に意識が向かいがちです。
しかし、人が何かを突き詰めて考えようとする時には、「モヤ」感が元になっていることが多いと思うんです。何かが引っかかってそのまま通り過ぎることができない。だから調べてみようとする。そうするとそこで新たな疑問がわいてきて、そこから興味と関心が広がっていく…といった具合ですね。
ですから、授業において、あるテーマがスッキリと完結していなくても、その授業が思考のきっかけを与えるものであればそれでよいと思うんです。
「この授業で○○のことが分かるようになりました」とか、「○○先生の授業が分かりやすかった」という感想は、言われた先生にとってはうれしいことかもしれないけれど、何かそこで思考が停止してしまっているような印象を受けます。
それよりも、授業が終わった後に「モヤ」感が残っていて、そのトピックについてもう少し調べてみようという気持ちになることの方が大切なのではないでしょうか。
日本ではこれまで分かりやすく教えることばかりが重視されてきて、「モヤ」感を残すような授業は否定されてきたと感じるんです。でも、もともと学問って、読んで字のごとく、学び問うことなんです。学ぶためのトリガーというのは、問い続けることでしょう。だとすれば、授業で疑問解消、スッキリしたというのは、本来の学びとは言えません。
中高を終えて大学に入るときには、分からないということを前提に考え続ける力が必要になります。確か数学者の森毅さんが書いていたと思うのですが、中高時代に数学を解くのが得意だった生徒が大学に入ってからしばしば躓くのは、分からないということに対する耐性がないからだという趣旨のことを読んだことがあります。大学やその先で扱う数学というのは、むしろ答えが分からないことが多いから、答えのない問題にどのくらい取り組んでいられるかというのが大事な能力だというわけです。
まったくその通りだと感じます。性急に答えを見つけることばかりが大切なのではなく、時には分からないことに対してそれをモヤ感として保持しておく力というのは、生涯学び続ける上でとても大事な力になるのです。