地域社会や家庭において「しつけ」の機会が減っていると言われている昨今、道徳教育というのは学校に期待されている大きな役割の一つです。今回は道徳ということについて少し話をしようと思います。
どんな学校でも地域社会の中に存在している以上、その評判は気になります。生徒たちが地域社会の中で迷惑となるような行動をしていたら、学校も評判を落とすことになるので、生徒には道徳心を持って行動してもらいたいと願うのは当然のことでしょう。
しかし、「~をしなさい」とか、あるいは「~をしないようにしなさい」といって、子どもたちを恐怖や罰則で縛るようなことをしていても、本当の意味での道徳心は育たないのではないでしょうか。それは厳しい見方をするならば、ある意味で学校側(あるいは先生)のアリバイ作りにしかならない。つまり、「学校は注意していたのに、生徒がやってしまった」という責任逃れの理屈です。
そのような強制による道徳心の植え付けではなく、子どもたち自身が内なるルールを構築し、自らそれに従おうとする精神を持つことが大切です。先生に言われたから何かをする(あるいはしない)という判断をするのではなく、自らの理性の声に従うという感性です。
したがって、先生の側でも強制的に「こうしろ」と従わせるのではなく、ある状況を生徒に想像してもらって、まずは考えてみようと問いを設定してあげるという役割になってくるわけです。
もちろん最初のうち(中学1・2年生あたり)は、一定のルールによって生徒に「型」を作らせる時期が必要だと思います。「作法」と言ってもいいかもしれません。そして、「守」「破」「離」ではないけれど、徐々に生徒の自主性に委ねて、先生は細かいことは口出ししない。そんなあり方が、かえつ有明の道徳教育だと考えています。
子どもというのは本来道徳心を持っているし、それを理性によって磨いていくことができる存在です。ただ、彼らが疑問に考えることに対して、無理やり枠をはめようとすると反発が起こる。例えば「老人を敬いなさい」といった観念だけを与えても意味はなくて、それよりも、おじいさん、おばあさんを尊敬できるような状況を与えて自分で考えさせたりする経験が大切になるのです。
私は毎朝校門に立って、挨拶をします。昔も校門指導はしていましたが、挨拶をきちんとさせる、服装をきちんとさせる、といった「~をさせる」ことを中心に考えていました。しかし、今は違います。朝校門で出会う生徒たちの顔をみたい、一言声をかけたい、と思って立っています。生徒との関係を抑圧的な関係にしないことによって毎朝私自身楽しく仕事が始まっていきます。気が付くのは、挨拶は強要しなくても多くの生徒は自然に挨拶をすることです。
考えてみると、道徳心も、「感性」と「論理」がエンジンとなり、周囲の人と「コラボ」しながら育んでいくものなのですね。つまり、内側から発してくるという意味では「感性」なのですが、それをクリティカルにリフレクションするという「論理」の機能によって絶えず見直していくわけです。そのような自己であれば、他者に対してもリスペクトをもって「協働(コラボ)」していくことにつながるのではないでしょうか。