ソクラテスの辻説法ではないですが、最近、たまたま通りかかったクラスや生徒たちを巻き込んで「哲学授業」をするというのが気にいっています。
先日はオルセー展でコンシェルジュ役を務めてくれた生徒たちと、セザンヌの絵を題材にディスカッションをしました。そして、つい数日前には、大学受験の準備で放課後講習に参加している高3生のクラスで、順天堂医学部の小論文の題材(キングスクロス駅の写真)を見て感じたことについて議論しました。どちらも生徒たちが面白い答えを出してくれて、私自身大いに刺激を受けました。
絵や写真を題材にするといいなと思うのは、パッと見て感じたことが心に残ることです。正しいとか正しくないということではなく、まずは感じるということがあるのですね。まだ言葉で自分の感じたことを的確に表現できないけれど、絵を見たときに、何かを感じるわけです。本当は絵でなくても、国語の文章などでもあるでしょうが、絵は一番そういった感性が動きます。
私はこれをモヤ感と表現しているのですが、この部分を大切に持っておくことが、後になって効いてくる。思考はそこからスタートするのです。
セザンヌの絵を例にとれば、「このテーブルは少し歪んでいるぞ」とか、「何でこのリンゴはテーブルから落ちないのだろう」とか、不思議な感覚にしばらく浸ってから、遠近法を知っている生徒であれば、この絵は少し遠近法が変だぞとか、焦点をどこに置いて描いているのか考えてみようと、知識を元にして論理が動きだす。
ですから知識は知識で大切なのですが、テストのことばかりを気にすると、最後に答えをアウトプットするために知識を覚えておこうという学習スタイルになってしまう。それが現在の知識偏重の問題点です。知識を元に思考を働かせることが大事なのです。
結論を急ぐ必要もないし、教師があらかじめ想定していた方向に無理やり議論を持っていくのもよくない。モヤ感を抱えながら、問いを発していくことが考えるということになると思うのです。