石川校長:
今かえつ有明では、どの教員もアクティブラーニングを推進しています。かくいう私も始業式でアクティブラーニングをしてみたり、たまたま居合わせた生徒たちとソクラテス対話をしたりしています。Dutson先生は、TOK(Theory of Knowledge)の授業をずっと担当していて、哲学を授業に取り入れていますね。
今日は、私が実践している哲学対話と、Dutson先生が行っている英語によるTOK哲学授業が、潜在的な部分でシンクロしているのかどうか、そして本校がずっと取り組んでいるサイエンス科での学びとTOKはどのようにつながっているのか、そのあたりのことについて検証したいと思っています。
まず、Dutson先生が哲学の授業を重視しているのはなぜでしょうか。
Dutson先生:
哲学的な問いというのは、信じられないほどのパワーを発揮するものです。あらゆる問いの中で最も深く、興味をかきたてるものです。ですから、授業に哲学を取り込むことで、生徒が持っているエネルギーを引き出し、生徒が面白いと感じる何かにつなげることができると思うのです。
石川校長:
そのようなパワフルな問いとは、例えばどういう問いですか?
Dutson先生:
「神は存在するのか」とか、「人は自身の行為を選ぶ自由な主体だと言えるのか」といった問いです。私たちは自分の行為を自分自身で選んでいるように思っているけれど、もしかしたら例えば広告の影響を受けているだけなのかもしれないし、また、脳科学のある研究によれば、自分が判断を下すよりもほんの少し前に、ニューロンが生化学的な反応を起こしているという説もあるようです。もしそうだとすれば、自由意志によって行動を決めているということは疑わしくなってきます。
石川校長:
なるほど。決定論か自由意志かという問題ですね。これは確かにパワフルです。そういう問いについての議論というのは、イギリスの中学生や高校生は皆が当たり前のようにするものなのですか。
Dutson先生:
はい。たいていは「宗教」とか「社会」といった科目の中の一部分として学びます。あるいは「シチズンシップ」という授業かもしれません。「シチズンシップ」は、良い市民とはどういうものかとか、どのような責任を負うべきなのか、などについて学ぶ授業です。また時には哲学の特別授業で扱うこともあるし、とにかくカリキュラムのどこかにはそのような哲学的議論が入ってきます。
哲学的議論で大切なことは次のことです。つまり、哲学授業を意味のあるものにできるかどうかは、先生が議論をどのようにファシリテートするかにかかっているということです。科目的な知識を学ばせるのではなく、どのように議論をするかという方法を学んでもらうようにするということが大事なのです。
そのために先生は、手順を示すことに専念することです。トピックを考え、どういう問いから出発したらよいかを考え、その次にはどういう質問をしたらよいか。そして、授業のあるポイントにおいて、どちらの問いがより適切かといったことを考えるのです。
石川校長:
問いの流れということでしょうかね。
Dutson先生:
そうです。流れが大切です。というのも、哲学の授業は、前もって計画を立てることは実際にはできません。生徒がどこでどう言ってくるか、どんな経験を話してくるかということは予測できませんから。そこで、ひたすら彼らの言うことに耳を傾ける態勢を整える必要があります。そして正しい質問で対応することができるようにするわけです。もしここで、間違った質問をしてしまうと、生徒が沈黙してしまったり、議論が様々な違う方向へと進んでいってしまったりするでしょう。ですから、授業のそれぞれのポイントで、どういう種類の問いをするべきかについて分かっていないといけません。これはとても難しくて、私は今でも時々間違った問いを出してしまいます。
石川校長:
正しいかどうかの判断はどこで出てくるのでしょう。
Dutson先生:
これは「私の」判断ということではないのです。先生が生徒の答えをよいかどうか判断するというのは決してするべきではないと思います。もし、先生が生徒の反応を判断してしまうと、彼らは先生が持っている答えを探って、その意見を繰り返すことになり、本当の議論をすることにはつながらないでしょう。彼らがそれぞれに自分の意見を引き出し、それを彼ら自身が比較していくことが大切です。
哲学的な問いにおいては、すべての答えが正しいということはありません。間違った答えと正しい答えがあります。ただし、正しい答えは一つとは限りません。答えが正しいかどうかの判断は、この答えは筋が通っているかどうかと考えてみることです。
私は、よくクローズドクエスチョンで授業を始めます。例えば、「こういう状況で、○○さんがしたことは英雄的だったと言えるだろうか」などといった質問です。答えは、「そうだ。英雄的だった」か「いや、そうではなかった」という二つに分かれますね。そこから「なぜ」と問いかけます。授業の始まりでは、生徒が皆で共有できるようにできるだけ多くの答えが出るようにすることです。しかし、そのあとは、様々な答えの中で、どれがより筋が通っているか、どれが良い答えか、どの意見はそれほど良くはないかということについての議論をしてもらうのです。そこでは先生は決して自分の意見を言ってはいけない。生徒に自分達の意見の善し悪しを判断させ、生徒自身が結論に至るようにするのです。
石川校長:
生徒はどんなふうに善し悪しの判断基準を形成するのでしょうか。
Dutson先生:
難しい質問ですが、こんな例はどうでしょうか。肉を食べるというトピックがあるとしましょう。「肉を食べることは果たしてよいことだろうか」と質問するとします。だれかは「いやだめだ」と答えるかもしれません。「動物にも命がある。その肉を食べることでその動物の命を縮めてしまうのだから」と理由を言ったとしましょう。それに対して「なるほどいい答えだ」と思う人もいるでしょう。最初はそんな風に感じることもあるしれません。そこでは肉を食べるのはよくないことだという考えは筋が通っているわけです。
そこでこんな質問をするとします。「ある豚は自分がとても美味しいお肉として食べられることが使命だと考え、心からそう願っている。そういう場合はどうだろう。それでも肉を食べることは間違っているだろうか」と。そうすると今度は肉を食べるのはよくないことではないかもしれないという考えの方が筋が通っていると感じるようになるかもしれません。それでも肉を食べるのが間違っていると答えるのであれば、今度はまた別の理由を考え直す必要が出てくるわけです。
石川校長:
面白いですね。Dutson先生がそういう質問をする際、そこにはどういう考えがベースになっているのでしょうか。
Dutson先生:
私は哲学には3つの分野があると考えています。形而上学、認識論、そして美学です。形而上学というのは、存在についての学問、認識論は、世界について私たちが知り得ることに関する学問、そして美学というのは、価値や判断についての学問で、ここには倫理学も含まれます。私の授業のアイディアは、こういった伝統的な哲学的な問いから来るもので、それは人類が約2500年に渡ってずっと考えてきたこの3つのカテゴリーのものと同じなのです。
石川校長:
なるほど。この3つのカテゴリーは、カントの分け方に似ていますね。Dutson先生の授業にカントは関係しているのでしょうか。あるいはイギリスの思想家としてはどういう人が哲学授業のベースにあるのでしょう。
Dutson先生:
倫理に関することではカントを参照しますね。「あなたの行動原則が普遍的な原理として成り立つように行動しなさい」という有名な言葉を引いて、ある一つの状況について考えてもらうということをするかもしれません。
イギリスの思想家としては、ヒュームやロックを参照します。ヒュームは因果関係や、科学の客観性を考える文脈で持ち出すことがあります。ジョン・ロックは、知覚とか実在について考えたいときに参照します。哲学者にはそれぞれの関心領域というものがあり、すべての哲学者を持ち出すことはできませんから、トピックに合わせてそれにふさわしい哲学者の考えを参照するのです。
石川校長:
以前に体験授業を覗いたときに、子どもたちを前にして、船のアイデンティティについての授業をしていましたね。デカルトなどの哲学者の名前が挙がっていたと記憶しているのですが、あれはどういう意味だったのでしょう。
Dutson先生:
私が哲学者を引き合いに出し、彼らの考えを提示するのは、いつも授業の終わりの時間です。もし授業のはじめに提示してしまえば、子どもたちは自分で考えずにその哲学者の考えに合わせようとしてしまうでしょう。なぜ私がデカルトやアリストテレスなどの哲学者の考えを提示するかというと、それは、子どもたちが考えたプロセスというのは、かつて哲学者が考えたことと同じなのだということを伝えたいからなのです。
「船の部品が変わったのだから、船は違う船になったのだ」とか、「部品が変わっても同じ設計だから同じ船だ」などと子どもたちが答えるとき、それはまさにアリストテレスや他の哲学者と同じようなプロセスを考えたということで、私はそのことを子どもたちに伝えてあげたいのです。もっとも、哲学者は少しばかり「洒落た」言葉遣いをするという違いがあるわけですが。
石川校長:
そういうわけだったのか。哲学者の名前が出てきて、いったいどんな思想を教えているのかと疑問に思っていたのですが、今ようやく謎が解けました(笑)
Dutson先生:
哲学授業というのは、いつもシンプルに始まるのです。わずか2分~3分ほどの短いお話に、哲学的な深い問いを盛り込むことができます。でもそれは最初は隠されているのです。私はそれを言いません。そして、「どんなお話だったか」などと質問を開始します。「この話にはどんな意味があるのか」などについて議論が始まります。そのうち誰かが、「待てよ、どうも変だ。筋が通らない。もっとここのところを知りたい」とか、「なぜこの人はこんなことをしたのだろう」といった疑問が出てきます。そこから議論がだんだん広がっていくのです。
船のアイデンティティの話は、トマス・ホッブスやプラトンが書いています。しかし、細部まで立ち入って読もうとすると生徒には少々難しいですから、私はそれをもっとシンプルな形に焼き直します。
1970年代以降、こういう風に哲学を教育に入れていこうという動きがアメリカで起こってきて、マシュー・リップマンという人が推進しています。イギリスでもこの5~10年ほど、そのような動きが目立っていて、7歳から12歳の生徒を対象に、哲学を採り入れた授業が行われています。そしてそういった授業が成果を上げているということも大学などの研究によって分かってきています。
石川校長:
具体的にはどのような成果を上げているのですか。
Dutson先生:
一番大きな成果は、生徒たちが自分で判断をするようになるということです。何に関してもです。例えば、ニュースを見て、「この報道が偏っている。必ずしも真実を伝えていない」などと考えるようになるのです。
授業では、円を作るように座り議論をします。様々な意見を聞き、どれがよりよい意見なのかを考え、自分の考えを述べます。そういうことをして1年とか2年が経つうちに、やがて、そのプロセスが自分の内部に起こるようになります。そして何かを読んだり見たりするたびに、「このことは道理に合っているだろうか」とか「このことは自分が教わったことに合っているのだろうか」とひとりで判断するようになるのです。
石川校長:
日本の子どもたちを教えていて、そのことは同じように当てはまりますか。それとも難しい面もあるのだろうか。
Dutson先生:
日本の子どもたちは、協調性とか「和」を重視するように教わってきているから、文化的な要因のために最初は難しいことがあります。しかし、何ヶ月かすると自分でやるべきことが分かってきて、徐々にではあるけれど向上していきます。
石川先生:
最後に、本校のサイエンス科とTOKとのつながりは、Dutson先生からはどのように見えていますか。
Dutson先生:
サイエンス科では、例えば「比較・対照」などの考えるためのスキルを身につけることを重視しています。この要素はTOKや哲学授業でもありますから、そういう意味では同じ要素を使っていると言えます。ただし、違う面としては、哲学授業では、より考えることそのものにフォーカスするので、思考のためのツールよりも、思考を引き出すための問いかけが重要になってきます。哲学授業の手法もサイエンス科と同じようにあらゆる科目で採り入れることができるので、今後、サイエンス科の先生や他の先生と、こういう話をしていくことが大事だと考えています。
石川校長:
ぜひそういう機会を設けるようにしましょう。本日は長い間ありがとうございました。