前回、アトムの目のことを書きました。今回はロボットの目について考えるにあたり、錯視の問題を取り上げます。
錯視とは目の錯覚のことです。最も単純で代表的なものを下図に示します。水平線の長さは同じですが、上と下とを比べたとき、誰もが下の方が短く、上の方が長い、と感じます。長方形と、それを90度回転したものを繋げたものが右側です。同じ長方形ですが、上のほうが長めの長方形に見えます。実際とは違って見えるために錯覚と言われるわけです。このような現象は人間の視覚情報処理系の特性から来るものです。水着の下腹部のカットの角度で足を長くみせたり、まつ毛の工夫で目を大きく見せるなど、錯視を積極的に使ったファッションデザインやお化粧の方法が広まっているようです。
色についても膨張色という言葉がありますが、白と黒とを比べると、白の方が大きく見えます。白の洋服は太って見えると言われますね。囲碁は白石と黒石を使ったゲームですが、白石は黒石よりも少し小さめに作られているそうです。私は50年以上も囲碁を楽しんで来ましたが、このことには全く気付きませんでした。早速確かめてみました。10個の石を隙間なく一列に並べたときの写真です。確かに3%位の差が在るようです。
眼球はカメラと同じ構造をしているといってよいでしょう。レンズである水晶体を通った光が網膜上に像を結びます。網膜には視細胞がぎっしりと密に並んでいますが、今のデジタルカメラでも同様で、受光面にあるCCDセンサも二次元に配列された受光素子から構成されています。ここまでは両者は機能的にはまったく同じといって良いでしょう。視細胞からは光の強さが神経パルスに変換されて出力されます。視細胞からの出力を処理する細胞のネットワークは極めて複雑であり、そこでの処理の内容については厳密には分かっていません。しかし、錯覚はそのニューラル・ネットワークの処理特性から生まれる現象であることは間違いありません。
生物の持つ機能の多くは進化の結果として理由付けられることが多いですね。人類がなぜ二足歩行になったか?四足歩行よりも生存に有利であったから、というわけです。両手が自由になった結果、食料獲得も容易になり、かつ、大きな脳を支えられるようにもなりました。生存・繁栄への基盤ができた、というわけです。では、錯視は人類の生存に関して有利な何かがあるの?という疑問が沸いてきますね。なぜなら、錯視は外界を誤って認識する現象とも言え、人類が生き延びるのにプラスになっているかどうか疑問でもあるからです。
この問題に対して、一川誠著の集英社新書『錯覚学―知覚の謎を解く』に進化論に沿った説明がなされています。その要点は以下のようです。人類の歴史を考えると、三次元空間、すなわち実際の立体を認識する必要性の方が、紙のような平面上の図形の認識に比べて、はるかに重要性が高いですよね。紙のような二次元媒体が広く日常生活に入ってきたのは人類の歴史の中ではごく最近のことと言えます。人間の視覚系は立体認識を主体に発達してきたことは間違いないことです。したがって、錯視は、極端に表現すれば、三次元の認識に特化して発達した視覚系をそのまま二次元図形に適用することから生じる現象、と解釈できるでしょう。一部で錯視のような誤認識に近い現象があるとしても、三次元の認識が瞬時に正しくできる視覚系であれば、トータルでは最適な処理系になっている、という訳です。(この段落のここまでの表現は私の自己流の解釈と表現に基づくもので、著者の意を正しく伝えていない可能性があります)。証明できるものではない問題ですが、私はこの説に納得してしまいました。